ただいま見参!想起録 第三話 - 拾肆

ただいま見参! 想起録 第三話

拾伍

がむしゃらに逃げ回っていたら、いつの間にか西日になっていた。誰も追ってきていないのを確認すると、由利ゆりは木の上なのも構わずに顔を覆ってその場に蹲った。

「これから、どうしよう……」

全部、全部思い出してしまった。自分が過去に何をしたのか、自分が誰だったのか。みんなのいるあそこにはもう帰れない。自分が居たら、きっとまた全て自分の手で壊してしまう。何より―あの人にあんな顔をさせてしまった。

それが堪らなく痛い。

しばらくそうして蹲っていると、突然ぱっと脳内で光が弾け、以前会った人物が思い浮かんできた。それが誰かに思い至って、由利は軽く目を瞠る。

「兄上……」

あの時は随分雰囲気が違っていた気がするが、顔に面影があった。それに言いようもなく懐かしかったのを覚えている。

これから行く場所を決め、ふと自分の格好を省みる。足袋も足袋を止めるのに巻いた晒しも赤黒く染まり、黒い装束にも赤い染みが点々と付いている。それに気づいて由利は顔を凍らせた。どこか、どこかで着替えないとあいつ﹅﹅﹅が来る。

夕餉を取って一人出かける支度をしている所に、桃琥とうく和丸かずまるの元にやってきた。体調面から彼も和丸に同行することになったのでそのことかと思ったが、それにしては桃琥の面持ちはやけに硬かった。

「今、この場には和丸さんしか、いませんよね」

「ああ……どうした?」

片眉を上げながら問い質すと、桃琥はしばらく言い淀んで、意を決したように口を開いた。

「以前、オレが変な質問したのを、覚えてますか? 〝由利さんは人間ですよね〟と」

聞かれて、和丸は「ああ」と当時のことを思い出す。確かに、彼と一悶着あった時にそんな事を聞かれ「当たり前だろう」と返した気がする。あまりに妙な質問だったので記憶に残っていたようだ。

「確かにあったが……それがどうかしたか?」

もう二年も前の話のはずだ。今更それがどうかしたのだろうかと不思議に思っていると、思いがけなく桃琥が床に手をついて頭を下げてきた。

「申し訳、ありません……! オレが、オレがあの時気づいていたら……!」

「気づいて……って、何にだ?」

目を丸くしながら和丸は更に問う。桃琥は頭を上げないまま言葉を続けた。

―簡潔に、申し上げます。由利さんは、鬼です」

桃琥は震える声で、ようやく本題を言い切った。二年前のあの日感じた違和感。それは今日、彼女が記憶を取り戻したことで確信に変わった。自分と、安杏あんずが彼女の鬼気に当てられて気分を悪くしたのはそのせいだ。特に安杏は妖の血が入ってることから影響を受けやすい。平気な顔をしてはいたが、相当に草臥くたびれているはずだった。

「鬼って、お前……」

桃琥が顔をあげると、眉根を寄せた顔が見えた。突然の話で受け入れ難いのだろう。それもそうだと桃琥は思う。突拍子もなさすぎる。

「鬼、と言っても完全に鬼になっているわけではありません。それは、由利さんが人として暮らしていたのを見れば明らかです」

彼女は人だが、人でなくなりかけている。ギリギリの所で、完全に鬼になっていない。それには何かしら理由があるはずだ。

「人が鬼になるには二種類方法があります。一つは周囲から鬼とされること。由利さんの態度からこれかもと思いましたが、大長の話からすると、今回はこちらではないでしょう」

大長は「感情のない顔で見てきた」と言っていた。それが本当ならばこれではなく、もう一つの方が可能性が高い。

「もう一つは、一つの感情にとらわれ、個を壊すこと。さしずめ狂気の鬼、とでも呼べばいいでしょうか。自身の心も性格もあったものは最後には全て壊されて、無に還る」

心や感情はいつの時代も人を狂わしていく。特に鬼女となった女性の話は能の話の中にいくつも存在し、人々に不思議と愛され続けている。

「由利さんはたぶん、こちらです。記憶も、感情も、どちらも鬼に繋がるものだったのでしょう」

恐らく一度、彼女の中で壊れたもの。そして、人として完全には取り戻そうとしなかったもの。このどちらも彼女が壊れた時に通じてしまうためだったのだろう。

和丸は馬鹿にする風もなく、彼の言葉を静かに聞いていた。

「それで、どうしてお前は謝ってる」

「オレがあの時気づいていたら、もう少しどうにかなっていたかもしれない。思い出させない方法だって、何かあったかもしれないんです。そう思うと、どうしても……っ」

桃琥が悔しそうに膝の上で強く拳を握る。陰陽師として経験不足なのはわかっている。それでも、とどうしても思ってしまう。自分で目指そうと決めたものなのが、余計に歯がゆい。

和丸が小さく息をついた。

「おい、新米ひよっこ陰陽師もどき」

「もど……⁉」

とんでもない言われように桃琥は頬を引き攣らせる。顔を上げると、半眼で彼を見る目とぶつかった。

「お前一人でどうこうなる問題でもないだろ。お前も由利も―あと菜津なつも、真面目過ぎんだよ。全部自分ひとりでどうにかなるなんて思ってんな。人間できることなんて限られてんだから、勝手に思いつめてんじゃねぇよ。めんどくせぇ」

最後が本音だろうと本能的に感じた。和丸は一息ついて、言葉を続ける。

「お前言ってただろ。由利自身が思い出そうとしてるかもしれないって。だったら遅かれ早かれこうなってただろうさ。お前が何かした所でな」

桃琥は肩の力を抜いて、ほうと息を吐いた。なんだかんだで、彼も甘い人だとそう思った。そして、これだけで気が軽くなるのを感じるのだから自分もかなり簡単な人間だ。思わず自嘲するように顔がにやけた。

「あなたに気を使われるとは相当気持ち悪いですね。礼は言いますが、以降は遠慮しておきますね」

「お前、本当に大概失礼なやつだな。その方がらしいっちゃらしいが」

「お褒めに預かり光栄です」

「褒めてねぇし」

いつもの調子で皮肉を述べると、桃琥は一度深呼吸をして気を引き締める。最後に、彼に伝えなければならないことが残っているからだ。

「和丸さん。由利さんはまだ鬼になっていません。最後に一つ、やり残していることがあるからでしょう」

「やり残し?」

「大長が仰っていたでしょう。自害しようとしていた、と」

和丸の顔がさっと青ざめた。それを認識しながら、桃琥は続ける。

「全てオレのただの推察に過ぎません。ですが、仮にそうだとしたら和丸さん。あなたは何が何でも由利さんが生きるように、前を向くように説得しないといけない」

「そんなの、百も承知だ」

既に腹が据わっているのか、和丸は間を置かずに言い切った。その返事を聞いて、桃琥は一度目を閉じる。他に、彼に今伝えるべきことがないかを順に整理し―瞼をひらいた。

「オレがあなたに伝えに来たことは、今ので全てです。支度が整いましたらお声がけください」

粛々と礼をし、桃琥はその部屋を後にする。廊下の途中で一度立ち止まり、手を当てて服の下を確かめる。奮い立たせる様に深く深く深呼吸をすると、桃琥も腹を決めた。

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