三、口はしあわせの元 - 3

ただいま見参! 口はしあわせの元

三、口はしあわせの元 - 4

それから数日の間は、娘は葉助と会うことなく過ごしていた。

それとなく尋ねてみたが由利には苦笑されながら「いつも来るわけではないから」とも「今は所用であまり里にいない」とも告げられた。

あんな大騒動があった後だし、それもそうかと娘は考え、とりあえず普段通りの生活を送れるように心がけている。気を抜けばすぐに掛け茶屋のみんなが心配になるからである。

床の拭き仕事を終えると瓶に水を足して欲しいとお願いされた。

彼女が手桶を持って井戸まで出向くと、そこで思いもよらず葉助が手ぬぐいで顔を拭っていた。

全く予期していなかった娘はうっかりと手桶を落としてしまいあたふたとする。急いで拾って隠れようとしたが、その前に声をかけられてしまった。

「水汲みですか?」

「あ、は、はい。ご利用中のところ、し、失礼しますね」

「手伝いますよ」

「うえぇぇえええ⁉」

葉助としてはいつもしていることだったので深い意味は全くなかったのだが、娘の方は先日、静にあんなことを言われた手前完全に上がっていた。

葉助は「気にしないで」と言いながらすでに釣瓶つるべを落として水を汲み上げている。

そのまま手桶に水を入れてもらうと、娘が持ち上げる前に葉助がひょいと手桶を持ち上げた。

「奥様にお忙しいって聞きましたよ! お気になさらず、わたしが運びますから!」

「重いから持っていきますよ。それにその件は大丈夫ですから」

「あ、ありがとうございます」

押し切られて素直に御礼を言ったものの、娘の脳内は、今度は「道中なにを話せば⁉」という戸惑いで埋め尽くされていた。

「ここの生活はもう慣れました?」

「は、はい。お陰様で」

歩き始めて少し。彼の方から話しかけてくれたため、娘はとりあえずほっとする。

「お屋敷のお仕事は菜津さんに面倒を見てもらっているんですが、問題ないってお墨付きを頂いたんです。助けていただいたご恩を返せているようで少し安心しています」

ハキハキと話す娘の様子に、葉助は目元を和ませて「良かった」と小さく感想を漏らした。

きょとんとする娘に、今度は葉助が安堵した理由を説明する。

「ここに来る人は精神的に辛い経験をしてくる人が大半なので、里に来てしばらくは気持ちが落ち込んだり、不安定な人が多いんです。なので、元気そうで安心しました」

なるほど、と娘は納得する。

「ご心配いただいてありがとうございます」とお礼を述べてから、はたと気になった。

「ヨウスケさんもそうだったんですか? あ、言いたくなければ流してくれて結構ですので」

―僕の場合は妹と一緒に親に捨てられたんですが、妹の方が熱を出してしまって大変でした」

答えてもらえるとは思っていなかった娘は、彼の経緯を聞いてから踏み込んでしまったことに気づきサッと青ざめる。

「ご、ごめんなさい。聞かれたくないことでしたよね」

「いえ、僕だけあなたの半生を知っているのも不公平だと思ったので、丁度良かったです。掛け茶屋の人たちが今どうしているかとか気になったりはしないんですか?」

いま気になる台詞があったような気がしたが、それよりも娘は彼の後半の台詞に気を取られた。そう聞かれれば「気になる」と答えるしかない。

「親を亡くして以来ずっとお世話になってきた人たちなので、無事でいてくれてるかどうかは、気になります。でも、まだ外は混乱していて危険だと聞いていますから、わたし一人で探しには行けないですし、そうなるといま気にしていても仕方がないですから……」

「そうですか。―店主と奥さんはご無事でしたよ。甲賀の村の一つに逃げ込まれていました」

「え……」

「一緒に働いていた娘さんはまだ消息が掴めていないんですが」

「探して、くださったんですか⁉」

思わず足を止めて驚く娘に「気になったので」と葉助も手桶を下ろして頷く。

「生きてる、んですね」

ぽろっ、と見開いた目尻から雫がこぼれて「すみません」と娘は慌てて目元を拭う。

なんとか笑顔を作って彼を見た。

「それを聞いて少し安心しました。わざわざありがとうございます」

深々と頭を下げる娘に、葉助はさらに問いかけた。

「もし店主の元に身を寄せたいというのであれば、長に話を通して案内しますが」

彼に「どうしますか」と聞かれて、娘は一瞬頭が真っ白になる。

里に身を寄せて、混乱が収まって、掛け茶屋の人たちが見つかった時、その後のことを全く考えていなかったのだ。

もっと先のことだと考えていたせいもある。逆に考えれば、再びあの掛け茶屋に戻ることを考えていなかったのだ。

すっかりここに根を下ろす気でいた自分に気づいて彼女は少しだけ呆然とした。

「今すぐでなくてもいいので」

気を利かせて返事は後日でいいと伝えようとしたのを「いえ」と娘に遮られる。

「おやっさん―店主は、戻ってきて欲しいと言っていましたか?」

「遠目から確かめただけで話してはいないのですが、心配はされているようでした」

「そうですか。お店はやられていたんですか?」

娘の続く質問に葉助は「いいえ」と首を横に振る。

娘はその答えを聞いて覚悟を決めたようだった。

「でしたら、いまおやっさんの元に身を寄せるのは重荷になると思うので、ここに残ろうと思います。ここならわたしにやれることもありますし。ただ、わたしの無事だけはどうにか伝えたいですが……」

「それなら、文を書かれたら僕が渡してきます。向こうは文字が読めますか?」

文と言われて娘は自分が店で使っていた特定の文字は読めても書けないことを思い出す。

「この里の人は皆ほとんど文字の読み書きができるので、手伝ってもらえばいいですよ」

「そ、そうなんですか! すごいですね! わたしはおやっさんに少しだけ文字を教えてもらったので、おやっさんはたぶん読めると思います」

嬉しさから興奮する娘に葉助も思わず笑みが溢れた。

「どうしました?」

笑われたと勘違いした娘はなにか粗相をしたかと慌て始めたので、葉助は慌てて否定する。

「いえ、調べてよかったと、心から思ったので。それでは、このまま里の一員になる心持ちなんですか?」

「は、はい。皆さんが許してくださるなら当面―いつまでとかは全く考えていないんですが、そうしようかと、今は考えています」

娘の意思に今度は葉助がなぜか悩み始めた。「まあいいのかな?」などと独り言を呟いていて娘は疑問符をぽんぽんぽんと浮かべている。

「その、里に残るつもりなら、もしよければなんですけど。僕と……」

言いかけてそのまま言葉が途切れてしまう。

「? どうかされました?」

娘の心配そうな顔に葉助は一つ諦めの息をつく。

「僕が、字の読み書きを教えましょうか?」

「え……え⁉ そ、それはありがたいことですけれどいいんですか⁉」

葉助は「もちろん」と肯定して下ろしていた手桶を持ち上げる。「そろそろ行きましょうか」と彼女を促した。

娘も頬を紅潮させながら隣についていく。

しばらく歩きながら葉助が「そういえば」と口を開く。

「あなたの名前、僕はまだ知らないんですけれど、教えてもらってもいいですか?」

葉助の申し出に娘は目を丸くする。

顔に紅葉を散らしながらもはにかんで娘はそれに応えた。

「わたし、コウと言います。これからご指導のほどよろしくお願いいたします」

それから三日後、京と大阪の境にある天王山で、明智光秀が羽柴秀吉にやぶれ命を落とす。

信長を失った世間の混乱はいまだ収まらないが、これにより里も警戒態勢を解き、徐々に普段通りの生活に戻っていった。

その後、もう一人の娘・サキも他の忍の里に身を寄せていることが判明する。

その流れでも娘・コウは里に残り続け、葉助に文字を教わり手ずから文を書き上げ彼に届けてもらった。

静はこっそりその様子を見て「仲良さそうにしている」と喜んでいたという。

―そして師走上旬。

由利が第一子を出産し、里は喜びに溢れる。

その空気に続くように。年の暮れ前には、葉助とコウの二人は赤縄せきじょうを結ぶ運びとなる。

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